家族の死亡ーナシームの「違った歴史」に思う
以下、まず、ファクトのみ。
深夜、携帯電話で起こされました。
家族が死にかかってるとのこと。
覚悟しとくようにということだと、多分、理解したつもりでした。
ほんとは、すぐに、病院に来るようにという趣旨だった
かもしれませんでしたが。。。
そして、
今朝、
再度、病院から、電話。
呼吸が弱くなってるから、
臨終に立ち会うようにと。
慌てて、なんとか病院に到着したら、
まだ体は暖かく、
眠ってるのかと。。。
ただ、
心電計などのモニターはフラット。
もう意識はありませんでした。
やすらかに亡くなりました、と。
主治医があらわれて、死亡宣告。
死亡診断書はすぐ書きますよと。
あとは、
事務手続きを、
流れ作業のように
滞りなく、
こなしていただきました。
感謝。
そう、
みんな一度は死にます。
当たり前ですよね。
ただ、
家族の死亡は、幸せだった思い出が
溢れてきて。。。
葬儀社のヒトが来るまでの時間、
ナシームニコラスタレブのいう、
「違った歴史」、
別の言葉でいえば、
「ありえた他の可能性(つまり、歴史が違った道をたどっていた場合)」を思ってました。
たとえば、
もっと、早く、意識がない状態でも、病院にきていた可能性。
まあ、どっちみち、死んだら同じ。。。?
もっと、いい医者、いい病院に助かるように
手を尽くせたかも?
寿命は多少伸びても、手術すれば、 手術後の苦しさのなか、安らかにはしねなかっただろう。。。とか。
もう起きてしまったことを、
あれこれ考えてもね。。。
ナシームの引用(邦訳の原文そのままです。「まぐれ(邦題)」から。。。
「観察された結果と観察されないけれどもあり得た結果の両方を考慮すべきだなんて、
むちゃくちゃだと思うかもしれない。」とのことです。
「ほとんどの人にとって、
確率といえばこれから起きることの話で、
もう結果がわかってる過去の話ではない。」
「もう起きたことの確率は100%、つまり確実だ。」
死んだ家族には、二度と会えない。 あたりまえですが。。。。
資産運用だけじゃなく、少なくとも、
家族の死亡については、これもナシームの世界だと思ってるうち、葬儀手続きに忙殺されることになりました。
空き時間に、
自分のファクトをまとめました。
万が一、読んでくれるヒトがいたら、
カネ儲けとは、無関係な話、お許しください。